ハンセン病と英語の先生

 

 こんにちは、英語同時通訳者オンライン英語・通訳講師の山下えりかです。

 

 6月22日は厚生労働省の定めた「らい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の日」です。そこで今回は、私がこれまで興味をもって学んできたテーマのひとつであるハンセン病についてお話しします。

 

ハンセン病 同時通訳 山下えりか

 

 まずはハンセン病と言う病気と日本における歴史を簡単にまとめます。

 

 ハンセン病とは、「らい菌」に感染することで主に皮膚や末梢神経が冒され、ダメージを受けた箇所が変形したり壊死したりする病気です。ハンセン病はかつては「らい病」と呼ばれていましたが、この呼称が差別的に使用されていたことから、「らい菌」の発見者であるノルウェーの医師ハンセン氏にちなんで明治時代から「ハンセン病」と呼ばれるようになりました。かつて「らい病」は結核と並んで恐れられた病気で、「らい病」は「国辱病(国の恥となる病気)」、結核は「亡国病(国を亡ぼす病気)」と呼ばれた歴史があります。

 

 ハンセン病の症状は様々で、視神経にダメージを受けて視力を失ったり、指先の神経が冒されて指が曲がったり切断に至ったり、血行不良で全身の毛が抜けてしまうことなどが代表的な症状です。「らい菌」自体の感染力は弱く1940年代には治療薬が完成しています。このため元患者の方々は後遺症はあるもののハンセン病は治癒しており、現在日本国内での患者は既存・新規ともにほぼゼロという状況です。

 

 ただし治療薬のプロミンが完成するまで、ハンセン病には有効な治療法がなく、そのため感染者は周囲から恐れられていました。

 

 明治以前の日本ではハンセン病患者は家から追い出され放浪者となることが多かったそうで、神社仏閣で倒れ込んだ患者をキリスト教会が保護するというケースがよく見られたということです。この状況やこの病気自体を国の恥とした明治政府はハンセン病患者の療養所施設を作りそこへ患者を半ば強制的に収容するようになります。

 

 そしてその流れを受けて1931年(昭和6年)、日本政府は「癩(らい)予防法」を制定し、法律に基づきハンセン病患者を本格的に強制収容するようになります。ハンセン病患者が出た家は家全体が真っ白になるほど消毒剤を散布され、残った家族は村八分の状態になったとも言われています。このような政府の政策によって周囲の人々はハンセン病が恐ろしい伝染病だという誤った認識を植え付けられ、その後長らくハンセン病は差別の対象となりました。

 

 1940年代になるとハンセン病の治療薬プロミンが海外で発表されます。ハンセン病は完治できる病気になったにも関わらず、日本政府は1953年に「らい予防法」を制定し、隔離政策はその後も続きます。「らい予防法」が廃止されるのは1996年と、平成になってからです。そしてその後元患者の方々が国賠裁判を起こし、2001年に原告の勝訴が確定、政府と国会が元患者の方々に対して謝罪をしています。

 

 私が「ハンセン病」という病気の名を初めて知ったのは、高校2年の時(留学前)でした。社会でも生物の先生でもなく、当時の英語の先生が、授業中の小話として「日本にはこんな歴史があるんだよ」と教えてくれました。その頃(2001年)はハンセン病の国賠裁判の原告勝訴と政府の控訴断念が決定した直後。恐らく新聞かニュースに出ていたのだと思います。

 

 ハンセン病という病気やこの病気に対する国の愚行、また被害者である元患者の悲惨な歴史を、私たち世代の多くは知りません。小、中、高校と、教科書で見たこともなく、宮崎駿監督の映画「もののけ姫」に出てきた全身に包帯を巻いた人たちがどういう人たちだったのか、訳も分からず見ていました。

 

 先生の話を聞き、目の前の景色が歪むような衝撃を受けたことが忘れられません。なぜ私たちはこんなに大切なことを教えられずにいるのだろうと、悔しいような、悲しいような、何とも言えない苦い気持ちになりました。その時点でそれ以上なにかを知ることはできませんでしたが、以来ハンセン病という病名はいつも頭のどこかにありました。

 

 数年前に縁あって東村山市に引っ越し、ここに国立ハンセン病資料館があることを電車の広告で知りました。そこでまず知ることから始めようと、図書館で数冊の本を借りて読み始めました。

 

 多磨全生園という国内最大級のハンセン病療養所と資料館がある自治体とあって、4つある市立図書館のハンセン病に関する書籍の蔵書数は豊富です。そのうちのひとつで近所にある萩山図書館には市内最大の書庫があり、絶版になった本でもほとんどを貸し出してくれますし、市役所に隣接する中央図書館にはハンセン病専用のコーナーも設置されています。

 

 数あるハンセン病関連書籍の中から、初めてこの病気を知る人にも分かりやすいように書かれた入門書のような本から読み始め、「ハンセン病文学」と呼ばれる元患者の方々が執筆された小説や詩集も読みました。そしてその中で、療養所という名の強制収容所で元患者の方々が受けた凄惨な人権侵害の現実を知りました。以下、中でも私の印象に残っている話を載せておきます。

 

  • 強制不妊手術

 最近ニュースでも話題になった「旧優生保護法」の対象者にはハンセン病患者も含まれており、療養所内で結婚をする際には男性側が不妊手術を受ける必要がありました。またそれでも妻が妊娠してしまった場合には、強制的に中絶手術を受けさせるか生まれたばかりの胎児をその場で殺したり、中にはハンセン病患者の出産した胎児のサンプルとして遺体がホルマリン漬けにされることもあったそうです。(実際にこの実物が各地の療養所で確認されています。)

 

  • 完全隔離政策

 患者が療養所から脱走することを防ぐため、多磨全生園では2メートルを超える柊(ひいらぎ)の生け垣が施されていました。また同じく脱走防止のため、療養所に入ると現金を療養所内でのみ使用可能な仮貨幣に交換させられ、外界から完全隔離されました。

 

  • 療養所内での裁判

 患者が事件を起こすと療養所内で「特別法廷」が開かれました。そこでは一般的な裁判では最低限保証されるはずの患者の人権は一切無視され、療養所の運営側による独裁的な糾弾が日常化していました。

 

  • 療養所での患者の立場

 多くの文献から見られるのが、療養所の独裁的な性質です。そこでは保護され治療を受ける立場であるべき患者が弱者として虐げられ、療養所の運営側の気持ちひとつで理不尽な仕打ちが横行していました。草津にある栗生楽泉園では生活態度が悪いと判断された入所者は「重監房」という劣悪な環境の牢屋に入れられ、そこで命を落とす人もいたということです。

 

 高校時代の先生の数分間の話からハンセン病を知って興味を持ち、大人になって自ら学び始めてからは事実を知るほどに辛くなったのと同時に、「知らなければいけない」という使命感で学び続けてきました。先述の通りハンセン病は完治する病気となり、新たな発症者はほぼいない時代になりました。しかしながら国の間違った政策のために後遺症を抱え療養所の外で生活する道を断たれてしまった元患者の方々は、病気が治ってからも療養所で暮らしています。そして今入所者の平均年齢が80代後半となり、ハンセン病の記憶はこの国から消えようとしています。

 

 このような愚かで辛い歴史を繰り返さないためにも、せめて私は覚えていたいですし、機会があれば誰かに伝えて行きたいと考えています。そのため今回は思い切ってこのテーマで記事を書きました。私の英語の先生のように、この記事が誰かがハンセン病を知るきっかけになってくれたら光栄です。

 

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

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